静岡の春、20歳の君と──2003年3月の記録より
2003年3月10日。
静岡に、春の匂いがほんのりと混じりはじめた頃だった。
その日は有給を取っていた。
理由は、職場には言わなかった。
朝から、少し落ち着かなかった。
以前からメールをやりとりしていた女性と、
初めて会う日だった。
彼女は二十歳の短大生。
仮にユカと呼ぶことにする。
待ち合わせは、静岡駅南口に
できたばかりのスターバックス。
細江町から、バスと電車を乗り継いで来るという。
「9時34分の電車に乗りました」
「11時44分に静岡着です」
そんなメールが、数通届く。
そのあいだ、僕は家でネットを眺めながら時間を潰し、
10時半を過ぎてから家を出た。
静岡駅に着いたのは、11時30分頃。
「黒いレザーコートで、本を読んでる少女が私です」
「少女」という言葉に、
わずかな時代の温度差を感じた。
スターバックスの窓際を覗くと、すぐに彼女が目に入った。
黒のロングコート。膝を組み、
鞄から本を取り出そうとしている。
写真で見たより、少しだけ痩せていた。
正面から近づくのは芸がない気がして、
パントマイム風でいこうと、
いったん店の外へ出てガラス越しに視界へ回り込む。
軽く二度、ガラスを指で叩いた。
彼女は驚きもせず、すっと微笑んだ。
わずかに目元が緩んだだけだった。
軽く手を振り合い、店に入る。
彼女の正面に腰を下ろす。
「はじめまして」
「こんにちは」
そんな簡素な言葉だけが交わされた。
会話というには、まだ早い、薄い挨拶。
メールでは軽口も叩けたのに、
向かい合うと、互いに言葉が続かない。
それでも、不思議と居心地の悪さはなかった。
奇妙な安心感のある沈黙だった。
ぎこちないまま店を出て、
僕らは駿府公園へ向かった。
歩いているあいだだけ、沈黙が自然に許された。
市内を走る「駿府浪漫バス」に乗る。
名前に似合わず、ネオン街のように派手で、
少し胡散臭い色使いだった。
月曜の午前。
車内はがらんとしていた。
目的地の児童会館は休館日。
静岡に住んでいながら、その事実を僕は知らなかった。
彼女は、特に驚く様子も見せない。
「せっかくだし、カフェに行きませんか?」
彼女が言う。
「うん、いいですね」
平静を装って答える。
彼女は鞄から雑誌の切り抜きを取り出した。
スイーツと紅茶の特集。
どうやら事前に調べていたらしい。
向かったのは「C・K・S」というカフェ。
男性ひとりでは入りにくい店で、
彼女は前にも来たことがあるらしかった。
白を基調とした洋風の外観。
店に入ると、甘いバニラの香りが漂っていた。
ソファ席に案内され、
彼女はメニューを開く前から注文を決めていた。
僕は野菜カレーのランチセット。
彼女はスープとライスのセット。
どちらにもドリンクと小さなパフェがついて、
きっかり1,000円。
料理が運ばれてくると、
彼女はためらいなく鞄からデジカメを取り出した。
シャッターを押す手に、迷いがなかった。
「おばあちゃんに、デジカメとパソコン、
買ってもらったんです」
何気なくそう言って笑う。
──僕の子どもの頃、
祖母からもらえる最高額は、せいぜい百円玉だった。
夢の話になった。
「自分のカフェ、いつかやりたいんです」
その声には力みがなかった。
夢というより、
視野の中にすでに置かれているもののような静けさだった。
食事のあいだ、彼女は店内をよく見ていた。
テーブルの質感、椅子の布地、照明の色、
店員の制服──
どれも彼女の目に入り、
ひとつずつ記録されていくようだった。
「記者になれるかもね」と僕が言うと、
「それは無理かも。飽き性なんで」と、すぐに返された。
だが、本質は記録する人だった。
拾われるべき何かを、
無意識に探し続けている目をしていた。
やがて、
いじめられていたこと、
同年代と馴染めないこと、
年上の人に惹かれることを話してくれた。
「彼氏いない歴20年」なんて、
あれは、照れ隠しの冗談だった。
昼下がり。
彼女がどうしても見たいというので、丸井へ向かう。
目当ては高級時計「ブライトリング」─。
32万円のモデルに恋していて、
静岡に来るたび、ショーケースを覗きに来るのだという。
ねだられることはなかった。
彼女は驚くほど自然に店員と話していた。
商店街での時間を、
全力で楽しもうとする姿勢。
それに対して僕は、
どこか「外から見られる自分」を気にしてしまう。
彼女の眩しさは、
僕にとっての、
ちょっとした生き方のヒントのようだった。
エスカレーターを上がる途中、
彼女が肘で僕を突く。
「ほら、あの人……!」
視線の先には、男性店員。
「前にナンパされて、ちょっと遊んだことがあるの」
街の喧騒のなかでも、
彼女の芯の強さは変わらなかった。
雑草のように、
誰の評価も気にせず根を張っている。
僕は敬意を込めて、素直に言った。
「見た目は、ちょっとプライド高そうだけど、
知らないことはちゃんと知らないと言うんだよね」
ユカは二重まぶたをわずかに広げて、
「うん。それって、けっこう大事」と答えた。
「オトナって、そういうとこ見せないの」
そのまなざしは、
どこか好意を帯びていた。
気づけば、互いに敬語を使わなくなっていた。
丸井を出て、欅通り沿いの、
もう一軒のスターバックスへ。
2001年にできた店で、
テラス席から通りを見下ろせる。
ユカは「オリジナルブレンドで」と言って、
エチオピアとコロンビアを1:2で注文した。
砂糖もミルクも使わず、
苦味の奥に、まろやかさのある味。
──この頃から、
彼女の、もうひとつの顔が見えはじめた。
カップを両手で包み、
ふいに鞄からスケッチブックを取り出す。
文庫本ほどのサイズ。
革風のカバーには、使い込まれた艶があった。
「わたし、絵、描くの……見る?」
控えめな言葉とは裏腹に、
線には迷いがなかった。
スケッチには、
放射線状の陰影が美しく入った裸婦像。
「裸の女の人、描くのが好きで……」
彼女は、カップを口元に運びながら静かに言った。
僕はその姿を、ロモカメラで数枚撮影した。
シャッター音は小さく、誰にも気づかれなかった。
──数日後。
現像された写真に、僕は驚いた。
甘いピンボケの中に、
彼女の表情だけが浮かんでいた。
目が柔らかくなる瞬間というのは、
たしかに存在するのだと思った。
そのあと「キルフェボン」へ。
静岡で人気のタルト専門店。
僕はチーズタルト。
彼女はフルーツの何か──
名前は、もう忘れてしまった。
印象に残っているのは、
彼女の「見つめ方」だった。
皿の模様、スプーンの重さ、店員の服の色。
右手にデジカメ、左手にメモ帳。
誰に頼まれたわけでもないのに、
彼女は記録していた。
「わたし、なんかジャーナリストっぽいね」
そう言って笑ったが、
その笑いは、少し照れ隠しのようだった。
午後の終わり。
呉服町の、すみやソフト館地下にある
地元FM局「K-MIX」のガラス張りスタジオへ。
公開生放送中。
彼女は常連リスナーだった。
「今日の山蔭さん。
声が柔らかくて、好き」
その人物は僕らに気づいたのか、
マイク越しに言った。
「おやおや、春爛漫なカップルがいますね〜。
彼氏は……リーゼント!
湘南爆走族みたいです!」
僕は苦笑し、肩をすくめた。
だが、彼女はさらに先を行った。
パンフレットの裏に何かを書き、
ガラス越しに掲げて手を振る。
《頑張って》
《ノリ悪くない?》
蛍光灯に照らされた、手書きの文字。
山蔭氏は、さらに声を弾ませた。
──こういう瞬間、
彼女の「人前での強さ」が顔を出す。
誰の目も気にせず、
場の空気を切り開いていく力。
僕には、持ち得ない性質だった。
夕方、駅前へ戻る。
人の流れのなか、
彼女は鞄を探りながら切符を取り出す。
「……静岡って、思ったより広いんですね」
「時間って、ほんと、あっという間なんですね」
何を言いたいのか、
互いに、わかっていた。
だが、具体的な言葉にはしなかった。
別れ際、握手も、見送りもなく、
ただ「また」と言って、
彼女は人混みに消えていった。
黒いレザーコートの背中が、
ゆっくりと、小さくなっていく。
──あの日の彼女を、僕は今も覚えている。
覚えている、というより、
思い出そうと思えば、思い出せる。
そのくらいの距離で。
甘いピンボケの写真。
紙ナプキンの走り書き。
食べかけのタルトの断面。
スケッチブックに描かれた、裸婦の線。
どれも、強い印象ではない。
それなのに、
なぜか一度も消えなかった。
ユカ。
特別な存在だったとは思わない。
ただ、
静岡の春の一日を、
たまたま一緒に過ごした相手だ。
それだけのことなのに、
あの街の匂いを思い出すと、
決まって、彼女のことが浮かぶ。
理由は、
今も、よく分からないままだ。
ラベル: 過去のWeb日記

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