7/29/2025

あの日を最後に、映画館には行っていない──2012年7月29日


   今日、映画「ヘルタースケルター」を観てきた。

主演女優が体当たりで演じるシーンの数々は、
目をそらせば失礼な気もするし、じっと見つめるのも
気まずいような、そんな空気だった。

スクリーンに映し出される身体は、
鮮烈で、衝撃的で、どこか儚かった。
だけど不思議なことに、
どういう胸のカタチをしていたのか、
もう思い出せない。

たぶん、右隣に彼女がいたからだ。
ほんの少し近づきつつある関係。
映画の内容が濃ければ濃いほど、
その無言の距離に自分が揺れた。

昨日の安倍川の花火といい、今日の映画といい──
この二日間は、甘っちょろい言い方だけど、
ようやく自分も人並みになれた気がした。

明日からはまた、静かに、少し面倒で、
くたびれた日々に戻っていくと思う。
だけど、それもまた、いいのかもしれない。
この夏の二日間くらいは、
思い出にしても許される気がする。

◆2012年7月29日。
この日を最後に、映画館には一度も行っていない。
右隣の気まずさも、スクリーンの眩しさも、
そのまま夏に置き去りにしてきた。

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6/01/2025

ハイそれまでョ─まるでダメ男カルパッチョ風─平成27年8月31日


   ここ最近、身だしなみに対する無関心さが薄れてきて、
8月最後の土曜日だし、
たまにはネオン街の灯りでも浴びようか──
そんな気分になっていた。

ところが、財布と家計簿を見た瞬間、
頭の中のスイッチが落ちた。
大赤字。
夜風どころか、現実の風しか吹いていなかった。

結局、おでかけは中止。
代わりに、街はずれの魚屋で調理済みの海つぼを買い、
スーパーマム若松町で寿司を足して、
居酒屋ジターク(=自宅)で静かに飲むことにした。
海つぼなんて、いつ以来だろう。
子どもの頃は、駄菓子屋の片隅でも売られていて、
小さなプラスチック皿の上で塩気だけがやけに強かった。
あれが、今ではちょっとした高級扱いだ。
まるで大出世を果たした数の子や大トロみたいに。
(もっとも、どちらも僕は苦手なのだが)

しかも、すぐ食べられるものは滅多に見つからない。
生の海つぼは売っていても、僕には扱いきれない。
八年ほど一人暮らしをしていたけれど、
まともな料理の記憶はほとんどない。
せいぜい、こてっちゃんをフライパンで温めるくらいだ。
……料理と呼ぶには躊躇する作業ではある。

ピーマンの種を捨てるものだと知らず、
そのまま食べていたことを女友だちに話したら、
「バカじゃないの」と笑われた。
あのときの笑い方が、なぜか今でも耳に残っている。

料理は僕には向かない。
そのへんは、貴女の出番なのだろう。
もっとも、肝心の相手は相変わらず不感症で、
こちらの言葉なんて、まともに届いていない。
話を戻す。
計算し直してみると、ここ半年ばかりの
キャバクラ通いのせいで、
全財産は軽自動車がもう一台買える額ほど減っていた。
馬鹿だと自分でも思う。
でも、財布の数字より厄介なのは、
そこに積もった癖みたいなものだ。
とはいえ、昨日の海つぼはうまかった。
爪楊枝で殻をほじりながら、
最後のワタがすっと抜けたら
「カイカン…」と言えるのだろうが、
僕はいつも通り、途中でちぎってしまった。
そんなところまで不器用なのだから仕方ない。

──まるでダメ男、カルパッチョ風。
薄くスライスしなくても、もともと薄いのに。

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5/21/2025

ピンクの看板と毒素と僕──2010年2月21日の日記より


   昨日の街歩きで、ふと胸に引っかかったことがある。
どうにも全身に毒素がたまってきたな、と
薄々感じていたので、
これはもう光でも浴びて流してもらうしかない──
そんな勢いで、友達がやっているエステ店へ向かった。

ところが、入口の小さな表札に
「女性専用」 の白い文字が後づけで貼られていて、
思わず足が止まった。

あれ、僕みたいな男が来ていいのか。

いったんその場を離れて、
近くの公園でケータイを取り出し、
恐る恐る電話してみた。

受話口から聞こえた声は
いつもの調子で、こちらを迎え入れる柔らかさだった。

「僕、男だけど……大丈夫?」

「ああ、あれね。最近ね、
風俗と勘違いして来る男性が多くて」

「まあ、マンションの一室だし。
ピンク色の看板ってのも、誤解を招くのかもね」

「酔った男の二人組が来たときは、本当に怖かったの」

「危ない思いしたんだね」

「間違い電話も多いのよ。『ヌキありますか?』
 とか言われて……
ほんと、気持ち悪くなっちゃう」

「……まったく男という生き物は、ね。
と、いう僕も男なんだけどさ」

そこまで話して、
急にプチッと回線が落ちたような、
不意の停電みたいな気配が訪れたところで
この日の話は終わる。

オチらしいオチもないことは、
書いている僕がいちばん分かっている。

日記はこの先も続いているのだけれど、
さすがに少々、生々しすぎて
ここに置いておくわけにはいかない。

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2/02/2025

歌会始の儀風ぅぅにっき~~~~~~~~~


   2001年10月28日(日曜日)

「雨、雨、雨」

今日はず~~~~っと雨が降ってた。
僕はず~~~~っと日記帳ホームページの
htmlをいじくってた〰️

なんかものすご~~~く楽しかったと
思う反面、なんかやっぱり
すこ~~~~し物悲しかった。

妹にチョコエッグの買い物を頼んだら
た~~~~~~くさん買ってきた。
動物シリ~ズ第5弾は
いつコンプリ~~~~ト
するのだろうか?

夕方、
なぜかず~~~~~~~っと
メル交換続いてる
ぎゃるまま~~~~~~~~と
ヤフーメッセンジャ~~~した。

なんかあのコは僕が
悲しくてやりきれな~~~~~い
時にタイミングよくPCを
ネットに繋いでいる~~~~んだ。

僕はすこ~~~~~~し嬉しかった。

夕食はとろろいもだった。
ねべねば~~~~~~~としていた。
あまりとろろは
すき~~~~~~じゃないんだ。

あぁ、明日からまた
なが~~~~~~~~~1週間が始まるな。
頑張るしかな~~~~~~い。

水曜日は会社を
有給休暇する~~~~~んだ。
友達とあそ~~~~~~ぶヨ・テ・イ
ィィィ

胃?

ホントはあまり休みたく
な~~~~いんだけど。
僕はすご~~~~~~く
真面目だからねぇぇぇぇえ

以上、
歌会始の儀風
にっき~~~~~~~~~でした。

天皇皇后両陛下ただいま静岡にいます。

◆2001年の僕よ、なぜそんなに伸びているのか。
そしてなぜ「胃?」なのか。

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2/20/2010

雨とカレーと、ひとり歩きの午後──2003年3月15日


   朝から雨だった。目覚めは悪く、
妙な夢にうなされて寝汗をかいたまま、
午前七時半に目を覚ます。
枕元の空気は湿っていて、どこか重たく滞っていた。

台所へ向かい、昨夜の残りの
バーモントカレーをお椀に移す。
無言のまま口へ運ぶと、その甘ったるい
味が、ある記憶を呼び起こした。

ファッション誌で
「ガーリー系」に括られていた、元カノの面影。
……元カレー、なんて呼んだら
怒られるかもしれないけれど。

カレーの粘度みたいにまとわりつく
記憶を洗い流すように歯を磨き、
サプリメントを数粒、ポリポリと噛む。
それだけで、ほんの少しだけ心身の
調子が戻ってくる気がした。

「今日も、なんとかやっていこう」

そう思いながらも、午前中はいつものように、
ネットとメールの往復で時間が溶けていった。

けれど、この日は少し違った。
いつものように二度寝で終わる一日にはしたくなかった。
理由ははっきりしていた。
数日前、静岡駅南口のスターバックスで
見かけたユカの姿が、
心のどこかで引っかかっていたのだ。

あのとき彼女は「オリジナルブレンドで」と言って、
エチオピアとコロンビアを1:2で注文していた。
迷いのない横顔が、ふと頭に浮かんで離れなかった。
どこへでもひとりで行ける人間という在り方に、
少しだけ憧れていたのかもしれない。

今日は、僕も町へ出てみよう。
自分ひとりの意思で、行き先を決めて。

パジャマを脱ぎ、イトーヨーカ堂で
買った黒の長袖シャツに、履き慣れたリーバイス517。
その上にMIZUNOのスーパースタージャージを羽織る。
文字にすればちぐはぐだけれど、
鏡の中では案外まとまって見えた。

数年前、知らない中年男性に
「その革ジャン、いいね」と言われたことがある。
……いや、あれは革ジャンじゃなくて、
ただのジャージだったんだけど。

そんな小さな嘘と、ささやかな装いを
身にまとって、近所のバス停へ向かう。
しずてつバスは数分も待たずにやって来た。

最初の目的地は新静岡センター。
改装されたばかりの「すみや」を、
ユカとは別の友人に教えてもらっていた。

エスカレーターを上り、5階の売り場へ。
J-POPの棚は充実していたが、目当ての
スタン・ゲッツ
『ゲッツ・オー・ゴー・ゴー』は見つからなかった。

店員に尋ねれば早いのに、今日は
遠回りにこだわりたかった。
近道ばかり選んできた自分への、
ささやかな反抗のように。

そのまま4階の丸善書店へ。
『ぐるぐるマップ』を立ち読みして、
ひとりでも入りやすい飲食店を探す。

けれど、誌面には決して書かれていないことがある。
その店が「孤独にやさしい空間かどうか」は、
紙の情報からは読み取れない。

文庫コーナーでふと手に取ったのは、
昭和の風俗を記録した街歩きの本だった。
ノスタルジーと欲望のあわいを描いた文体に、
活字だけなのに息が詰まった。

ページを閉じて、思わずため息が漏れる。
自分自身の「これから」について、
ほんの少しだけ考えていた。

センターでの目的は果たしたものの、
ひとりランチに適した店は見つからない。
仕方なく、呉服町方面へと歩き出す。

途中、電ビルの香水と時計の店
「ウォッチマン」に立ち寄り、
ウルトラマリンを、2,980円で買った。
その場で試したベビードールの香りも悪くなかった。
男がつけても、たぶん大丈夫。たぶん。

空腹が限界に近づいた頃、2001年に
開店したスターバックス静岡丸井店へ足を運ぶ。
数日前にはユカと入った場所。今日は、ひとりで。

何の工夫もなく、キャラメルマキアートの
トールサイズを注文。
2階の窓際席に腰を下ろし、琥珀色の飲み物をすする。

アストラッド・ジルベルトのボサノヴァが流れている。
好きな音楽のはずなのに、なぜか心は
少しそわそわしていた。

ひとりでコーヒーが、まだ
自分の肌になじんでいないのだと思う。
それでも──25%果汁の
Qooみたいなものだと考えれば、しっくりきた。

濃くもなく、薄すぎもしない。
少し物足りないけれど、ちゃんと存在している味。

「Qooって、そういう飲み物だったよな」

ひとりで頷いて、ひとりで少しだけ笑った。

──が、空腹でのコーヒーは胃にこたえる。
暮らし苦、クラシック──胃の奥で同じ響きを立てていた。

早くひとりランチを見つけなければ。
時刻は午後1時を過ぎていた。

センターの飲食フロアをぐるぐる回ったが、
正午過ぎの混雑はまだ続いていた。
紺屋町方面を歩いてみても、
なかなかひとり向きの店は見つからない。

諦めかけたそのとき、呉服町通りの
右手に黄色い看板が目に飛び込んできた。

「あまから亭」──
昨日の夜も今日の朝もカレーだったけれど、
カレー専門店という潔さが、妙にこちらの心を助けた。

勢いのまま暖簾をくぐる。
雨に濡れた舗道の光が、店の名をぼんやりと滲ませていた。

店内はカウンターだけの細長い空間。
飾り気はなく、煤けた壁と古びた木目の中に、
時間が封じ込められているようだった。

メニューはラップで包まれた厚紙。
もちろん、カレーしかない。どこか安心する。
瓶ビールは一本500円。街中にしては、まずまずの価格。

瓶ビールとポークカレーを頼むと、
無愛想なおじさんが静かに言った。

「飲み終わったら、すぐ呼んでね」

回転率を気にしての一言だろうが、
その事務的なやさしさが今の僕にはありがたかった。

ビールをちびちびと飲みながら、千切りキャベツをつまむ。
テレビには近鉄対どこかのオープン戦。
雨の街と古いテレビの音が、
少しずつ酔いをやわらかくしていく。

やがて声をかける。
「そろそろカレー、プリーズ」
誰も見ていないのに、ひとりで小さく噴き出した。

注文したのはポークカレーの大盛り。
カレー皿は直径45センチほどのクリーム色。
福神漬けとらっきょうは好きなだけ盛れる──つまり無料だ。

赤と白のコントラストが、
食卓の上で静かに競い合っていた。
まるで紅白歌合戦みたいに。
苦手だったはずの豚の脂身まで、
この空間ではなぜか美味しく感じられる。

狭く地味なブラウンの内装に華やかさはなかったけれど、
そのぶん自室の生活臭を忘れさせてくれた。
食べ終わる頃には、ビールの酔いがじんわりと効いてきた。

会計は1,350円。
財布から小銭を出すときだけは、少し緊張する。
タクシーを降りるときみたいに。

「ごちそうさまでした」

その一言を、ようやく
酔いの心地よさからか、自然に言えた気がした。

黄色い暖簾を両手で押し開く。
鳩が羽ばたくように、店の外へ。
そして気がついた。傘を忘れた。

酔っていたのか、いなかったのか。
もう一度店に戻り、傘を回収する。

柄のボタンを押すと、
「プシュッ」と音を立てて傘が開いた。
透明なビニールの花が、ゆっくりと頭上に咲く。
雨粒を受けて淡く光りながら、街の輪郭をぼかしていく。
その傘の下で僕は、少しだけ変わった気がした。

(キミ、ちょっと表現がオーバーだよ)
──(大場)

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2/18/2010

静岡の春、20歳の君と──2003年3月の記録より


   2003年3月10日。
静岡に、春の匂いがほんのりと混じりはじめた頃だった。

その日は有給を取っていた。
理由は、職場には言わなかった。

朝から、少し落ち着かなかった。
以前からメールをやりとりしていた女性と、
初めて会う日だった。

彼女は二十歳の短大生。
仮にユカと呼ぶことにする。
待ち合わせは、静岡駅南口に
できたばかりのスターバックス。
細江町から、バスと電車を乗り継いで来るという。

「9時34分の電車に乗りました」
「11時44分に静岡着です」

そんなメールが、数通届く。
そのあいだ、僕は家でネットを眺めながら時間を潰し、
10時半を過ぎてから家を出た。

静岡駅に着いたのは、11時30分頃。

「黒いレザーコートで、本を読んでる少女が私です」

「少女」という言葉に、
わずかな時代の温度差を感じた。

スターバックスの窓際を覗くと、すぐに彼女が目に入った。
黒のロングコート。膝を組み、
鞄から本を取り出そうとしている。
写真で見たより、少しだけ痩せていた。

正面から近づくのは芸がない気がして、
パントマイム風でいこうと、
いったん店の外へ出てガラス越しに視界へ回り込む。
軽く二度、ガラスを指で叩いた。

彼女は驚きもせず、すっと微笑んだ。
わずかに目元が緩んだだけだった。

軽く手を振り合い、店に入る。
彼女の正面に腰を下ろす。

「はじめまして」
「こんにちは」

そんな簡素な言葉だけが交わされた。
会話というには、まだ早い、薄い挨拶。

メールでは軽口も叩けたのに、
向かい合うと、互いに言葉が続かない。
それでも、不思議と居心地の悪さはなかった。
奇妙な安心感のある沈黙だった。

ぎこちないまま店を出て、
僕らは駿府公園へ向かった。
歩いているあいだだけ、沈黙が自然に許された。

市内を走る「駿府浪漫バス」に乗る。
名前に似合わず、ネオン街のように派手で、
少し胡散臭い色使いだった。

月曜の午前。
車内はがらんとしていた。

目的地の児童会館は休館日。
静岡に住んでいながら、その事実を僕は知らなかった。
彼女は、特に驚く様子も見せない。

「せっかくだし、カフェに行きませんか?」

彼女が言う。

「うん、いいですね」

平静を装って答える。

彼女は鞄から雑誌の切り抜きを取り出した。
スイーツと紅茶の特集。
どうやら事前に調べていたらしい。

向かったのは「C・K・S」というカフェ。
男性ひとりでは入りにくい店で、
彼女は前にも来たことがあるらしかった。

白を基調とした洋風の外観。
店に入ると、甘いバニラの香りが漂っていた。

ソファ席に案内され、
彼女はメニューを開く前から注文を決めていた。

僕は野菜カレーのランチセット。
彼女はスープとライスのセット。

どちらにもドリンクと小さなパフェがついて、
きっかり1,000円。

料理が運ばれてくると、
彼女はためらいなく鞄からデジカメを取り出した。
シャッターを押す手に、迷いがなかった。

「おばあちゃんに、デジカメとパソコン、
買ってもらったんです」

何気なくそう言って笑う。

──僕の子どもの頃、
祖母からもらえる最高額は、せいぜい百円玉だった。

夢の話になった。

「自分のカフェ、いつかやりたいんです」

その声には力みがなかった。
夢というより、
視野の中にすでに置かれているもののような静けさだった。

食事のあいだ、彼女は店内をよく見ていた。
テーブルの質感、椅子の布地、照明の色、
店員の制服──
どれも彼女の目に入り、
ひとつずつ記録されていくようだった。

「記者になれるかもね」と僕が言うと、
「それは無理かも。飽き性なんで」と、すぐに返された。

だが、本質は記録する人だった。
拾われるべき何かを、
無意識に探し続けている目をしていた。

やがて、
いじめられていたこと、
同年代と馴染めないこと、
年上の人に惹かれることを話してくれた。

「彼氏いない歴20年」なんて、
あれは、照れ隠しの冗談だった。

昼下がり。
彼女がどうしても見たいというので、丸井へ向かう。

目当ては高級時計「ブライトリング」─。
32万円のモデルに恋していて、
静岡に来るたび、ショーケースを覗きに来るのだという。

ねだられることはなかった。
彼女は驚くほど自然に店員と話していた。

商店街での時間を、
全力で楽しもうとする姿勢。
それに対して僕は、
どこか「外から見られる自分」を気にしてしまう。

彼女の眩しさは、
僕にとっての、
ちょっとした生き方のヒントのようだった。

エスカレーターを上がる途中、
彼女が肘で僕を突く。

「ほら、あの人……!」

視線の先には、男性店員。

「前にナンパされて、ちょっと遊んだことがあるの」

街の喧騒のなかでも、
彼女の芯の強さは変わらなかった。
雑草のように、
誰の評価も気にせず根を張っている。

僕は敬意を込めて、素直に言った。

「見た目は、ちょっとプライド高そうだけど、
知らないことはちゃんと知らないと言うんだよね」

ユカは二重まぶたをわずかに広げて、
「うん。それって、けっこう大事」と答えた。

「オトナって、そういうとこ見せないの」

そのまなざしは、
どこか好意を帯びていた。
気づけば、互いに敬語を使わなくなっていた。

丸井を出て、欅通り沿いの、
もう一軒のスターバックスへ。
2001年にできた店で、
テラス席から通りを見下ろせる。

ユカは「オリジナルブレンドで」と言って、
エチオピアとコロンビアを1:2で注文した。
砂糖もミルクも使わず、
苦味の奥に、まろやかさのある味。

──この頃から、
彼女の、もうひとつの顔が見えはじめた。

カップを両手で包み、
ふいに鞄からスケッチブックを取り出す。

文庫本ほどのサイズ。
革風のカバーには、使い込まれた艶があった。

「わたし、絵、描くの……見る?」

控えめな言葉とは裏腹に、
線には迷いがなかった。

スケッチには、
放射線状の陰影が美しく入った裸婦像。

「裸の女の人、描くのが好きで……」

彼女は、カップを口元に運びながら静かに言った。

僕はその姿を、ロモカメラで数枚撮影した。
シャッター音は小さく、誰にも気づかれなかった。

──数日後。
現像された写真に、僕は驚いた。
甘いピンボケの中に、
彼女の表情だけが浮かんでいた。

目が柔らかくなる瞬間というのは、
たしかに存在するのだと思った。

そのあと「キルフェボン」へ。
静岡で人気のタルト専門店。

僕はチーズタルト。
彼女はフルーツの何か──
名前は、もう忘れてしまった。

印象に残っているのは、
彼女の「見つめ方」だった。

皿の模様、スプーンの重さ、店員の服の色。
右手にデジカメ、左手にメモ帳。
誰に頼まれたわけでもないのに、
彼女は記録していた。

「わたし、なんかジャーナリストっぽいね」

そう言って笑ったが、
その笑いは、少し照れ隠しのようだった。

午後の終わり。
呉服町の、すみやソフト館地下にある
地元FM局「K-MIX」のガラス張りスタジオへ。

公開生放送中。
彼女は常連リスナーだった。

「今日の山蔭さん。
声が柔らかくて、好き」

その人物は僕らに気づいたのか、
マイク越しに言った。

「おやおや、春爛漫なカップルがいますね〜。
彼氏は……リーゼント!
湘南爆走族みたいです!」

僕は苦笑し、肩をすくめた。
だが、彼女はさらに先を行った。

パンフレットの裏に何かを書き、
ガラス越しに掲げて手を振る。

《頑張って》
《ノリ悪くない?》

蛍光灯に照らされた、手書きの文字。

山蔭氏は、さらに声を弾ませた。

──こういう瞬間、
彼女の「人前での強さ」が顔を出す。
誰の目も気にせず、
場の空気を切り開いていく力。
僕には、持ち得ない性質だった。

夕方、駅前へ戻る。
人の流れのなか、
彼女は鞄を探りながら切符を取り出す。

「……静岡って、思ったより広いんですね」
「時間って、ほんと、あっという間なんですね」

何を言いたいのか、
互いに、わかっていた。
だが、具体的な言葉にはしなかった。

別れ際、握手も、見送りもなく、
ただ「また」と言って、
彼女は人混みに消えていった。

黒いレザーコートの背中が、
ゆっくりと、小さくなっていく。

──あの日の彼女を、僕は今も覚えている。

覚えている、というより、
思い出そうと思えば、思い出せる。
そのくらいの距離で。

甘いピンボケの写真。
紙ナプキンの走り書き。
食べかけのタルトの断面。
スケッチブックに描かれた、裸婦の線。

どれも、強い印象ではない。
それなのに、
なぜか一度も消えなかった。

ユカ。
特別な存在だったとは思わない。

ただ、
静岡の春の一日を、
たまたま一緒に過ごした相手だ。

それだけのことなのに、
あの街の匂いを思い出すと、
決まって、彼女のことが浮かぶ。

理由は、
今も、よく分からないままだ。

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