24年前、私は
三島広小路の街を歩いていた。
その前年から
ウクレレ教室に通っていたものの、
どうにもレッスンが面白くなかった。
邦楽の曲を中心に、
メロディを弾くというより、
コードをジャカジャカ鳴らして
歌うような曲ばかりだったからだ。
せっかくウクレレを弾くのなら、
もう少し違うことをやってみたい。
当時の私は、ウクレレで
ボサノヴァを弾いてみたいと思っていた。
アストラッド・ジルベルトの『瞑想』や
『サマー・サンバ』を繰り返し聴きながら、
ウクレレで弾くなら、もっと軽く、
もっと乾いた、それでいて
どこか湿り気のある響きがいいと思っていた。
そんなときに手にしたのが、
ワンダ・サーの『Vagamente』だった。
そのアルバムの中の一曲を、
私は特に気に入っていた。
三島広小路駅の看板が見える、
いずっぱこの踏切。
鰻の匂いと川のせせらぎが混じり合う、
あのあたりの風景の中で、
その曲を聴くのが好きだった。
誰に教わったわけでもない。
ただ、自分で見つけた音楽だった。
そして、その場所で
私はひとりの女性と知り合った。
やがて別れた。
出来事としては、それだけのことだ。
けれど、なぜかその頃の記憶は、
あの曲と切り離すことができない。
それから24年が過ぎた。
最近、テレビで熱海の街が
取り上げられているのをよく見る。
かつての自分が見ていた風景とは、
すっかり違う場所になったようにも感じる。
もちろん、それが悪いというわけではない。
ただ、あの人の多さを見ると、
ちょっとした用事であっても、
わざわざ今の熱海へ出かけていくことに、
少し躊躇してしまう。
昔の熱海にあった、
あの少し寂れた感じが
好きだったのかもしれない。
そんなことを考えているうちに、
ふと三島広小路のことを思い出した。
熱海ではない。
24年前に歩いていた、
三島広小路の街。
あの踏切のあたりなら、
今も当時とそれほど変わらない
時間が流れているのではないか。
人に押されることもなく、
観光地として過度に整えられることもなく、
ただ昔からそこにある街の時間。
もう一度、そこへ行ってみようと思った。
カメラを持って、
あの踏切のあたりを歩いてみたい。
そう思って、当時聴いていたアルバムを
もう一度聴き直していたときだった。
曲名が目に入った。
『Encontro』。
ポルトガル語で「出会い」を
意味する言葉だった。
私は、その意味を知らなかった。
24年前、ただ音が好きで聴いていた。
三島広小路の風景に
よく似合うと思っていた。
そして、その曲を聴いていた場所で、
ひとりの女性と出会った。
それなのに、その曲の名前が「出会い」
だったことを知ったのは、
それから24年も経ってからだった。
名前だけが、
ずいぶん遅れて追いついてきた。
踏切が上がるのを待ちながら、
いまの自分が確かめたいのは、
昔の風景がそのまま残っている
かどうかではないのだと思う。
24年前の自分が、
あの場所で何を感じていたのか。
なぜあの音楽が、
あの風景にあれほど
自然に馴染んでいたのか。
そして、なぜその記憶だけが、
24年経った今も残っているのか。
カメラに写るのは、街の輪郭だけだ。
けれど、そこには写らないものもある。
かすかな歌声。
鰻の匂い。
川のせせらぎ。
踏切の音。
頬をかすめた風。
そうしたものが重なって、
ひとつの記憶になっている。
だから今度は、
その場所を写真に撮ってみようと思う。
24年前の自分が見ていたものと、
2026年の自分が見るもの。
その二つが同じなのか、
もう違うものなのか。
それを確かめに、三島広小路へ向かう。
Encontro。
出会いという名前を、
24年遅れて知った曲を聴きながら。